和州忍辱山円成寺伽藍封疆之図(部分)
円成寺縁起 創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。
天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。
平安時代から次の鎌倉時代にかけて多くの堂宇や尊像が造顕されてきましたが、文正元年(1466)、応仁の兵火により、堂宇の大半を失います。しかし、当山子院知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心に、直ちに復興造営が開始され、栄弘が没した文明19年(1487)には、14の堂宇が復興されました。
江戸時代には、将軍の殊遇を受け、当初130石でしたが、応仁の兵火復興の過程で請来された「高麗版大蔵経」(現・東京、増上寺蔵)献上の恩賞として105石が加増、寺領235石、山内23寺をもつ一大霊場となりました。
幕末の動乱と維新の神仏分離以降は、寺領の返上と社会風潮の一変で衰退の一路をたどり、明治10年(1877)には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなりました。
明治15年(1882)、盛雅和尚の晋山以降、楼門、本堂の大修理と本坊、脇門の移建が行われ、県道の整備もあり、ようやく残った伽藍の保持がなされ、次の霊瑞和尚、先代賢住和尚の時代に主要堂宇のほとんどが改修、多宝塔も再建、浄土庭園などの境内地も整備され、今日の姿が整いました。